デンマーク生活から学んだエトセトラ |
少しずつ外へとその視野が広がって行った。
良く言えば先入観無しで、はっきり言ってしまえば何も知らずに始まった
デンマーク生活は小さな出来事でさえ、時として大問題だった。
その度に首をひねったり、ビックリしたり、怒ったりしていた私。
しかし、そこには一つハードルを越える度に手を叩いて喜べた初な心持ちの
自分がいた事も確かだった。
*フォー、フォ、フォー?*
「あのね、羊はフォー、何かを貰う事もフォー、少ししか無い時はフォ。
それから誰かさんの為に、の「為に」もフォー。だから、フォー、フォ、フォーと
言っていれば良いの。デンマーク語なんてカンタン、簡単!」と
誰かが教えてくれたけれど、実際には冗談じゃ無い。本当に大変だ。
何しろ、発音がややこしい。Rの発音はアールではなくて、エア。
だけども、他のアルファベットと合体すると、濁ったガーに近い発音になる。
ガーガーと濁音が続くとアヒルのようで笑ってしまう。
これに比べたら舌を噛み切るようにしたら何とか発音出来る英語のthなど
わけもない!
しかし、愚痴を言っても始まらず、とにかくデンマークの生活に慣れ親しむ
早道はやはり会話だろうと、デンマーク語教室の門を叩いたのだった。
学校のロビーには肌の色も様々な「外国人」で溢れるばかり。
私と同じようにデンマーク語の壁に挑戦する人がこんなにいようとは、
それまで自分の事で精一杯だった私には思いもよらない事だった。
教室にはパキスタンやトルコなど、中近東からの移民の他にも、
デンマークの企業で働くメキシコ人青年やデンマーク人と結婚した
フィンランド人女性などもいた。
こんなに多国籍の人々と時間を共有するのは生まれて初めてのことだったが、
遠い国から何かの理由でこの国に来た者同志が同じ目的で集っていると
思えば共感を覚える。
そう、何かの理由。
私はタカシさんとの結婚が理由。けれども、当時すでに不穏な情勢になっていた
イラン、イラクからの亡命者もいたし(同年、イランイラク戦争起)、
ベトナム人宣教師の女性もいた。彼女はデンマークで難民の救済活動を
しているのだった。
当時の緊迫した世界情勢が、そんな小さな会話教室にも確固として
存在していた。
それまでニュースで見聞きして知るのみだった、時代の波を直接受けた人々が、
今はクラスメートだ。自国を捨て新たな地で何とか生きて行こうと必死な人々と
私とでは、取り組む姿勢に差が出てきそうではあったが、
ともあれ、政治色を抜きにしたら、デンマーク語を学ぶという目的で
集まった人々に変わりなく、休憩時間には難解な北欧の言葉を嘆き
あっていたものだ。
最大にして共通の嘆きは発音ともう一つ、数字だった。
「はい、自分の電話番号を言ってみましょう。」という、先生の言葉に
一瞬ひるむ。1から20までは英語に準じるから簡単なのだが、
問題はそこから先、21は1と20という具合に、何と一桁から言うのだ!
電話番号は左から二桁ずつ言うので、
例:32 58 26 49 =2と30、8と50、6と20、9と40。
不自然この上もない。モノに道理が有るとしたらそこから外れているではないか!
今でもこの国の子供達が聞き取りながら、左から順にスラスラと
書いているのを見ては感心してしまう。
私は何年経ってもデンマーク式数字の読み書きが苦手で、
買い物の時などに度々コンガラガってしまう。
それでも、会話教室に通うようになってから行動半径が広がり、
日常デンマーク語を使う機会も増えて行った。
片言でも通じるととても嬉しかった。
商店街におばさん達だけで切り盛りしている八百屋さんがあった。
量り売りをしてくれるので、小さな所帯には助かる。
青物市場のような雰囲気が好きで、新鮮な野菜を見かけると買っていた。
その日は白くて張りのあるマッシュルームが店先に山と積まれていた。
私は「このマッシュルームを下さい。」と言ってみた。すると、
元気一色のおばさんが紙袋を膨らませながら景気良く聞いてきた。
「さあて、いかほど?」
立派に通じている。いいぞ、その調子。私はゴキゲンで200g。と
答えたつもりが2kg。になっていた!
訂正すれば良さそうなものだけれど、当時の私はドギマギするばかりで
八百屋のおばさんと五分で渡り合えるようになるまでには、まだまだ修業が
足りないのだった。
そして、「ま、いいか…」。私は大きな袋を抱えて帰った。
その日の夕食はもちろんマッシュルーム尽し。
次の日も、その次の日もマッシュルームが食卓に登場して、
マッシュルーム好きのタカシさんにして、
「乾燥して保存出来ない所が椎茸に負けている。」と言わしめたのだった。